数千年の歴史の中で、東日本は多くの災害を克服してきました。
しかし、この大震災は違っていました。
理由のひとつは福島第一原子力発電所の二次被害です。
「今のあなたの置かれた状況は、あなたが選んだものだ」と言われしまう。
でも、いつも「選びたい」と思う選択肢なんて一つもなかった。
双葉町から埼玉県に避難した女性の言葉
*高橋撮影の写真に限り、©の付以外ご自由にお使いください。
その1
岩手県陸前高田市
「(岩手県陸前高田市の復興は)遅い、遅いと言っても、だんだん出来ている。でも福島は別な問題ですね」と地元の㈱八木澤商店九代目の河野通洋さんから話を伺った。
2020年3月17日-19日、福島ツアーをいつも企画してくれる須摩修一さんからお誘いを受けて、3.11東日本大震災3県を巡る1400㌔の旅をした。二人とも新型コロナで相次いでイベント中止にあって、少し暇になったからだ。
写真は「高田松原津波復興記念公園」。国営の追悼・記念施設だ。東日本大震災津波伝承館「いわてTSUMAMIメモリアル」(県運営)と「道の駅高田松原」を設置している。この広い場所で音楽イベントを企画したが、「神聖な場所」ということで認められなかったそうだ。現在、被災後「奇跡の1本松」を7万本の松林にしようとしている。
「多くの人が亡くなり、あっという間に人口が少なくなっている。一人暮らしのおじいさんが都会の子どもたちに引き取られることも多いです」と河野さん。最後までもめたのが市役所。現⾼⽥⼩学校跡地を5m嵩上げて庁舎を建設中だ。⾞庫・倉庫は地上 3 階、資材倉庫は地上 1 階としている。ここでは職員120人位が亡くなっており、同じ場所での庁舎建設の反対運動がおきたそうだ。
陸前高田市は古くから発酵食品に携わる事業所が多い。被災者事業者らの間で「発酵の里」づくりの構想が生まれる。そこで、八木澤商店の土地を活用して、今泉地区の土地区画整理事業区域内に商業施設「発酵パーク・CAMOSY」を整備する。市はこれに伴い「市まちなか再生計画」の変更を国に申請、認定された。2020年11月頃完成予定だ。駐車場には太陽光発電所を設置し、施設には再生可能エネルギーの開発事業を行うエネルギー販売所も作る。その電気販売で得た利益でEVバスを運行する計画だ。
「将来にわたり震災の記憶と教訓を伝え、警鐘を鳴らし続ける『目に見える証』として活用」というのは宮城県気仙沼市の東日本大震災遺構・伝承館だ。被災した県立気仙沼向洋(こうよう)高等学校を震災遺構として残している。各所には写真と説明図があり、撮影も可能だ。スマフォンなどを使えば、説明文は英語・中国語、韓国語、インドネシア語に対応している。ただし、映像・展示ゾーンは撮影不可。新設のエレベータも設置された。
写真は屋内運動場=トップ。屋根が津波で流されている。約170名の生徒は全員無事だった。工事関係者5名と重要書類を保護するために残った職員20名もかろうじて助かった。津波は冷凍工場にぶつかり勢いが減少、更に、工場が校舎に向かって流されたが、西のベランダに激突し、校舎正面への直撃を免れた。3階には津波で流された車=下写真=が現存し、北校舎と生徒会員の間に挟まり宙に浮いた車もそのままだ。
JRの陸前階上駅からタクシーで約3分(徒歩約20分)の近さだ。入館料は一般600円、高校生400円、小・中学生300円。「気仙沼市が目指す『津波死ゼロのまちづくり』に寄与することを目的としています」なら、せめて小・中は無料にできないか、訪問した3校の遺構校舎施設の中、有料はここだけだ。
中でも体験ブロクラム(オプションメニュー・要予約)の料金だ。教育旅行や視察研修で利用される団体向けにあるという。でも1名~20名とある。語り部ガイド(約90分)は一般6千円、学校教育活動(高等学校まで)は3千円。防災セミナー1万、8千円、ワークショップ1万円、6千円。一般フルコースは2万6千円。その3レポートで、毎日無料で、南三陸ホテル観洋は南三陸の現状をバスで見学する約1時間の「語り部バス」を運行している。
その3
宮城県南三陸ホテル観洋
宮城県三陸町の「南三陸ホテル観洋」は毎日無料で「震災を風化されないための語りバス」を運行している。私たちのように宿泊者でない者も無料で乗車できる。約1時間の語り部は地元で生まれ育った渉外部長の伊藤文夫さん(77)。また、第一営業次長の伊藤俊さん(防災士)は「仕事じゃなくて、何かやらないといけないと思うからだ。2012年から毎日休むことなく続けている。一対一ことも。ほとんど(震災のことを)忘れさられている中、なかったことにできない」と話す。
このホテルにも最大20m以上の津波が襲来し、2階大浴場まで津波が浸水。電気・水・道路などライフラインが立たれ孤立状態となる。「余震が続き段々と暗くなっていく中、皆様に夕食をお配りしました。スタッフは笹かま一枚。その日のうちに厨房にて食材の在庫から一週間分の献立を作成し、提供を開始」(「3.11の記憶」のパンフレットから)震災から7日目の3月17日にご宿泊者全員が無事チェックアウトしたそうだ。
系列の「高岡会館」にも地震約40分後15m以上の津波がやってきた。当日、高齢者芸能大会が行われていた。会館は海岸から約200m。館内にいた若い従業員は「大津波がくるはずだ」と判断して、「生きたかったら残ってください」と屋上に避難させた。しかし、従わなかった8人は全員死亡。津波は屋上まできたが、出席者、近隣住民、従業員の327人と犬2匹の命が救われた。「私たちの経験・記憶を多くの皆様にお伝えすることで、将来の防災・減災にお役立てていただければ幸いです」とこの会館を震災遺構として登録し残している。
一方、「南三陸町防災対策庁舎」=下写真=では、屋上に避難したが、43人が犠牲となった。その場所は鉄骨の骨組みだけ残し、公園として整備されている。鉄骨にはペンキが塗られた。「新築のビルの骨組み?」「現代アートですか? 」ということも聞かれるそうだ。
「人口が30%減った。今でも続いている。震災を伝えるのはしんどい。でも、やめてはいけない」と伊藤次長は語っていた。
(この語り部の話はその4に続く)
その4
宮城県三陸町
宮城県三陸町
新校長に猛反発した地元女先生の断固主張
子どもたちを救う
「この南三陸の志津川湾はいつもおだやかです。あの日、この海があばれだしたのです」と南三陸ホテル観光の語り部は話す。「あそこの黒い2本の鉄塔のようにみえる間に(3階建ての)戸倉小学校がありました」=上写真。
ある日、新任の校長先生が赴任。北海道の奥島の津波のことを知って、「3分間で津波がきたので、高台に避難するより学校の屋上に逃げるようにしたらどうだろうか? 」と教職員に提案した。それに、地元で育った女先生が猛反発。「日本側と太平洋側では違う! 高台に逃げるべきだ」。これが決まらない。2年越しに。校長は最終判断し、高台とした。「これが良かった」と語り部。でも、防災訓練のとき、近くの保育園児は指定された小学校の屋上に逃げ、小学児童とすれ違う。「なんかおかしい」
そしてあの3.11が来た。校長先生はいつものように屋上へ行く鍵を用意していた。しかし、先に保育園児が高台に逃げているのではないか。
高台に上がった。しかし、様子をみて、2度目の避難を開始、神社に上に上った。
あの日は雪がちらつく寒い日。でも帰れない。保育園の園児18人、児童91人の他170人余が避難して、一夜を頑張った。
神社=下=の中から小学生の歌声が聞こえきた。3.18の卒業式に歌うために練習が重ねてきた「旅立ちの日「だった。(you tubeの歌、たぶんhttps://gyutto.site/8RU4 )高台に残った住民の何人かは亡くなられたようだ。
今、この神社の砦の横に「東日本震災記念碑」石碑が2012年11月に建てられた。
未来の人々へ 「地震があったら、この地よりも高いところへ逃げること」
その5
宮城県女川(おながわ)町は復興のトップランナーといわれている。その秘密は「還暦以上は口を出さず」にある。
女川町では震災から8日目、水道も電気も通らない中で民間の有志がプレハブに集まり、まちづくりの準備会を開いた。その約1カ月後には、商工会、水産業関係者らを中心に、女川町復興連絡協議会を立ち上げた。
「女川町復興連絡協議会を立ち上げたときの会長は、還暦で、『復興に約10年、まちづくりの成果が分かるのに、さらに10年かかる。だから、20年後に責任がとれる30代、40代にまちづくりをまかせて、還暦以上は全員顧問になって、若い人たちをサポートしたい』と託しました。若者中心のまちづくりと言われていますが、正確に言うと上の世代の人たちが若者を信頼してチャンスを与えてくれました」という。
震災の年9月には「女川町復興計画」が町議会で可決され、「これからも海とともに生きることを選んだ」。「陸と海を遮るものを作らず、町全体をかさ上げる」という方針のもと、津波防波堤は崩壊しない最低限の耐力を保持する構造を採用し、商業エリアは標高4.4m、住宅エリアは標高17~18mとした。明治三陸津波と東日本大震災を想定している。
翌年1月には協議会は「住み残る、住み戻る、住みに来る」町を目指す復興提言書をまめ、町長と町議会に提出。「こうした住民が主体となった活動が町の復興の大きな力となった」。
女川駅から海に向かってまっすぐに伸びる歩行者専用のレンガみち。正面から初日の出が登るように設計されている。旧女川交番は、鉄筋コンクリートが津波で転倒したもの。日本で初、世界的にも少ないという。「未来に生きる人々が私たちと同じ悲しみや苦しみを味合うことが無いように願い」震災遺構として保続している。
新しく建設された女川駅は木造だ。「女川温泉ゆぽっぽ」と情報センターなどがあり、町のランドマーク的存在だ。この裏に無人のJR石巻線出発駅のプラットフォームがある。
女川町では、2011年5月4日の「おながわ復幸(ふっこう)市」から、「町民一人ひとりが幸せを取り戻した時が復興だという思いを込め」「復幸(ふっこう)」の文字が使われるようになった。
参考:佐藤由紀子「東日本大震災から5年半。女川町の“本格復興期”を支える「若者力」」
https://suumo.jp/journal/2016/09/23/118299/ 女川町の掲示板
【トピックス 女川原発】
東北電力女川原子力発電所はここから車で15.7㌔、約30分。福島第一原発と明暗を分けた原発だ。
「過去に幾度もの津波に襲われてきた地域の一角にあるだけに、津波への危機意識は他の電力会社より高かったとみられ、三陸地域に甚大な被害をもたらした貞観地震(869年)によるものなど、歴史上の大津波も考慮したうえで、高めの位置への設置が決められた。
女川町では、発電所周辺の集落が津波で大きな被害に遭い避難用の道路も遮断された。逃げ場を失った住民らが女川原発に救援を求め、最大で360人ほどの住民が原発敷地内の体育館で避難生活を送った」。
北村行孝・三島勇著「日本の原子力施設全データ」より
しかし、同原発発電所では、外部電源5回線のうち4回線がストップ。「残る1回線の電力と非常用ディーゼルなどを併用して、事故当時の深夜までにはすべての冷温停止させている」
その6
宮城県石巻市大川小学校
大惨事を残さない、記録しない石巻市
宮城県石巻市立大川小学校には10年過ぎた今も供養塔に花束が備えられ、ここの悲劇を無言で伝えている。しかし、全校児童108人のうち74人が死亡したというこの惨事を文字で伝えるものは今もない。
学校管理下での戦後最悪の事例、最高裁で遺族側の勝利確定など、これまで多くの報道がされてきた現場である。
当時の写真とともにある学校内の公式説明文には
「震災前の釜谷地区は141世帯の集落。商店、診療所、郵便局等があった大川の中心地。北側の川幅は約550m、河口までの郷里は3.8km。地震発生は14時46分、震度6の揺れが3分以上続きました。海岸にあった10万本の松が流れ着き、橋に張り付いて津波をせき止めました。15時37分、そこからあふれた高さ約10mの津波が学校に到達しました」とのみ記されている。
学校に最も近い高台は裏山だった。「低学年でも十分登れる。5分あれば、全員避難できたはずだ」と遺族はいう。その避難場所の高台はコンクリートで整備されている。しかし、児童は川に近い「三角地帯」に移動させられ、津波の濁流に飲み込まれた。
「山さ逃げたほうがいいんじゃね」「早くしないと津波に来るよ」。近くにいた6年生は担任に訴えていた。(河北新聞「石巻・大川小 証言でたどる51分間」)
また、一度山に逃げたクラスの生徒たちが「降りてこい」と言われ、校庭に戻ったという話もある。
無事が確認されたのは31人。21人は遺体で見つかり、56人は安否が分かっていない。(当時)。教職員11人で助かったのは男性教諭1人だけ。校長(57)は午後から年休で不在だった。
学校と市教育委員は裏山に避難しなかつた理由を「現場にいた教師が『山に倒木があったように見えた』と話している』と説明している」。(河北新報)
また、「市教委は、児童の証言や当時生き残った男性教師の証言を記したメモも報告書作成後に全て破棄した。検証も難しくなっている」。(河北新聞)
参考:「大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻」:
http://memory.ever.jp/tsunami/higeki_okawa.html
リチャード・ハリー著 「津波の霊たち 3.11死と生の物語」
その7
「ありがとう 荒浜小学校」と横幕が4階建ての建物にある=下写真。遠くからみると、普通の建物を見えるが、近づくとはっきりした津波の跡がみえる。ここは宮城県仙台市荒浜地区。市中心部から約10km離れた太平洋沿岸部だ。2017年4月に津波の脅威を後世に伝える新たな使命を授かり、震災遺構として一般公開が始まった。
「この場所の周辺には住宅が立ち並んでいましたが、津波により、一部の住宅を残して、そのほぼすべてが流されてしまいました」という。東日本大震災にとき、児童(91人)や職員、住民ら620人がここ荒浜小学校の屋上に避難した。津波は2階まで押し寄せてきた。
一方、校舎の西側にあった体育館は2013年に解体され、跡形もない。ただ、体育館跡という看板に、被災前と被災後の体育館の写真付で次のような解説が付け加えられている。
「荒川小学校は2010年(平成22年)のチリ地震津波の経験を活かし、震災前に避難場所を体育館から屋上に変更、退院館に保管していた毛布などの備蓄品も校舎3階に移していました。このような防災対策の見直しが、児童や避難者の多くの命を救うことにつながりました」。
小学校館内は自由見学が基本。管理事務所が設置され、「案内が必要な方は下記(事務所)にご相談ください」となっている。2020.3.18に訪れたときには、新型コロナのために事務所は閉鎖され、内部も見学できなかった。
(荒浜小から)海の方を見ると真っ黒渦巻状のものが真横になって一斉にものすごい音を立てて突き進んできました。見渡すと家がない。海の方を見ると、残った数本の松の木と、鉄筋の家が数件見えるだけ。みんな声ができなくなりました。【70代男性】
震災遺構の保存は大切だが、果たして大型駐車場や遊歩道は必要だったのだろうか?
その8
村中央を走る県道12号線沿いには、フレコンパック山が今も残っている。原発から遠く30km離れた距離にある福島県飯舘村は誰もが安全だと思っていた。ところが、高濃度の放射能が村に降りてきて、村全域が計画的避難区域に指定された。
17年3月末、6年ぶりに村の避難指示が解除された。村堺に「お帰りなさい、首を長~くして待ったよ」、「いってらっしゃい、必ず帰ってきてね」という立て看板を作り、大々的なセレモニーお披露目をした。しかし、村人の移住者は714世帯、1,414人。県内外の避難者合計は4,023人、1,558世帯だ(村HPより2020.3.1現在)
17年4月、解除された当時にも村を訪れたが、その時に比べてフレコンパックの山は確実に減っている。村内仮置き場20ヶ所の内14ヶ所の全量は中間貯蔵施設(大熊町・浪江町)へ輸送を完了している。しかし、50.6万㎥の搬出でしかなく、未だ146.8万㎥が残されている。(環境省中間貯蔵施設サイトより)。これまで飯館村での除染費総額は概算で3,224億円。
一方、村にオリンピックの聖火がやってくる(取材時2020.3.19にはまだ東京オリンピック・パラリンピック中止発表はまだ)。新しく2017年8月に村にできた道の駅「までい館」前だ。この農業耕作地には昨年「マリーゴールド」の花が植えられていた、と館のセブンイレブンの若い女性店員から話を聞いた。ここの線量は0.15マイクロシーベルト/hと高くはない。
まだまだ農業の復興も、村の復興もまだ道半ばだ。
参考:
環境省中間貯蔵施設サイト
中間貯蔵施設情報サイト:環境省 (env.go.jp)
10分でわかる中間貯蔵 (環境省 作成動画)
2020.3.1 飯館村避難状況
https://www.vill.iitate.fukushima.jp/uploaded/attachment/10748.pdf
その9
ここはアニメ映画「浪江町消防団『無念』の現場。映画は放射能汚染によりここ地区の人々の救出に向かえなかった消防団の苦悩を描いた物語である。右端は海から300mの距離にある請度(うけど)小学校が残されている。試験操業をしている浪江町請戸港。港からは福島第一原発が見える。
通行止めが解除になった頃から何度もここを訪れているが、未だにその姿は大きく変わってはいない。もっとも数年前まで津波の被害を受けた家屋が多く残されていたが、今はほぼすべて解体されている。
「浪江町の復興は請戸漁港から」のもと、漁港は完成し試験操業を行っている。「現在、水揚げした魚は相馬市に運ばれ競りにかけられていますが、今後は「水産業共同利用施設」で荷さばきや競りなどの再開が予定・・・・また、漁港で水揚げされた新鮮な魚介類が浪江町から全国へ流通することで、さらなる復興も期待されます」とのこと。だが、この日港には私たち以外、誰一人もいない。今年8月に終了する工事関係者のみだった。何か変だと思ったら、釣り人がいない。たまたまか。堤防には数名の見学者がいた。
この地区では津波で127人の命が奪われたが、請戸小学校の児童83名は1.5km先の高台に逃げ、一人の犠牲者も出すことなく生き延びた。その「奇跡の避難 請戸小学校」として、紙芝居や絵本になった。解除当時は内部を見学できたが、今は柵で囲まれている。
町は、今後、震災遺構の運営形態や展示方法などを決めた上で、2020年度までには整備を終える予定だ。福島県では、震災遺構として保存されている建物は今のところなく、請戸小学校が初めてとなる見通し。
浪江町の吉田数博町長は「請戸小学校を震災遺構とすることについては請戸地区をはじめ町民の思いが大きかった。地震・津波、そして原発事故による災害の教訓や、児童の犠牲を出さなかった事実などを伝承する場としてさまざまな検証にたえられるものにしていきたい」と話している。
NHKの番組でここの児童であった女の子が「いつも学校の2階から福島原発を見ていました。それが当たり前の日常でした」と語っていたのを思い出す。でも、その日常風景の原発が今なおこの地区の復興を妨げている。
(追記:地元の人に聞いたが、実際は松林があって、間から見えるだけとのこと。
2021年には漁港は完全に完成している)
漁業の復興を願い、請戸漁港で出初式が開催 (浪江町HP)
その10
「先生! こっちだよ!」 四年生のりょうたです。
「この道から山に入れるよ! 野球の練習で来たことがあるんだ」
先生たちも入ったことのない道ですが、まよっている時間はありません。
こうして、りょうたが言った道から大平山に入りました。
「請戸州学校物語 大平山(おおひらやま)をこえて」より
地震発生後、校長は「とにかく 高いところへ! 」「大平山(おおひらやま)!」と校長先生は大声で指示しました。
8分後、「学生ごとにまとまり、列を作る。学年の間に先生が入り、走る」。29分後、りょうた君が先生に道を教える。39分後、子どもたち全員が山の中へ。52分後の15:32 請戸小学校に津波が来る。その数分後、津波が大平山に到着。
一方、このシリーズ5にも紹介した宮城県石巻市の大川小学校はどうだったのだろうか。両校を比較することで見えてくるものがある。「ザ・タイムズ」紙アジア編集長・東京支局リチャード・ロイド・パリー著「津波の霊たち 3.11死と生の物語」に紹介されている。
先生、山さ上がっぺ。
ここにいたら地割れして地面の底に落ちていく。
おれたち、ここにいたら死ぬべや!
担任の佐々木先生が子どもたちの声を無視。お母さんが迎えにきた。佐々木先生は学校にいたほうがいいとさえ言った。それに対して、保護者は「10mの津波が来るとラジオで言っていた」山を指さして「山に逃げて」と言ったら、佐々木先生は「お母さん落ち着いて」
と。「先生がきわめて冷静だったので、違和感を覚えました」。
また、ふたりの少年たちはかつてシイタケ栽培をしていた裏山の方に駆け出した。しかし、あたりの少年たちも戻って、静かにするよう命じられた。
当時の現場のトップ50代前半の石沢教頭も苦しんでいた。校長不在の中、マニュアルどおりに第一避難場所は校庭等に。保護者によると、教頭先生はひどい寒さの中汗だくになっていたという。教頭と(この地区の)釜屋の口調が言い争いをしていた。「山に上がらせてくれ」(と教頭は言ったが)、「ここまでくることがないから三角地帯へ行こう」と区長は言っていたという。その中で、子どもたちは運動場に50分も待機されられた。
そして、石坂教頭は「津波が来ているようです」と大声で言った。「急いでください。三角地帯へ逃げるから、走らず、列を作っていきましょう」。その結果、児童79人のうち74人、教職員11人のうち10人が死亡した。
その11(最終章)
福島県南相馬市原町区萱浜海岸は福島第一原発から10㌔圏外にあり、 緊急時避難準備区域が早くも2011.9.30に解除された地区。2013年に初めて訪れた頃、街中は普通の生活のように見えたが、この地区だけは別格だった。
しばらく護岸工事で行けなかったが、20年2月に通行できるようになったので、丘から眺めた。その景色は一変していた。田畑や家屋がすべて植林地と太陽光パネルの海に覆われていた。
話は一変してかなり昔に戻る。天明3年(1783年)浅間山噴火が起き、この地の中村藩も1万6千人の大飢餓が発生し、人口は半減。借金は最大で30万両にまで膨らみ藩存亡の危機に見舞われる。家老の久米泰翁は人口不足を補うために、北陸地方から真宗移民受け入れを提案、財政難を理由に却下された。また、移民は幕府から禁止されていた。
そこで、久米は職を辞任し、「個人で始めよう」と私財を投じて寺を建て移民受け入れを徐々に開始した。寺参りは御法度ではなかったからだ。新潟から500㌔の必死の旅をしてこの地にたどり着く。最終的にはその移民の数は1万人程に達したという。中村藩は移民に対して、土地や家、田畑や農機具に加えて種もみや食料や志度金等を支給し、一定期間年貢も免除した。移民たちは地元との信仰や風習の違いから苦労も多かったようだ。そうした祖先たちが住んでいた土地であった。
現代の復興事業と比較して、皆さんはどう思うだろうか?
「2004年のスマトラ島地震では13の国で約25万人が死亡した。2011年の東日本大震災の死亡者は1万8500人以下だった。にもかかわらず、日本の津波のほうが欧米社会の住民にこれほど強い印象を与えたのはなぜか? 言うまでもなく、理由のひとつは福島第一原子力発電所での二次被害だった」
リチャード・ロイド・パリー著「津波の霊たち 3.11死と生の物語」より
21世紀の選択は農業を捨て、東京資本を入れた太陽光パネル建設だった。果たして、これは正しい選択だったのだろうか?
(この写真のみ、2021.2.9 撮影)
参考資料:NPO法人南相馬サイエンスラボ発行「報徳仕法ってなんだろう ~二度の大飢饉からこの地を救った二人の名君~」
追記;
「私たちは、この道を右に行くか、左に行くか、というところから、何かを選ばなくてはならなかった。そして、『いまのあなた の置かれた状況は、あなたが選んできたものだ』と言われてしまう。でも、いつも、『選びたい』と思う選択肢なんて一つもなかった」
(双葉町から埼玉県に避難をした女性の言葉です。
昨年書いたこのシリーズ10から先が書けませんでした。2020.4.18から約1年ぶりに最終稿書き上げました。高々30数回フクシマを訪れても、本当のところは分かっているのだろうか? 21世紀の選択などと大風呂敷を広げているのではないか、と迷っていました。
本日2021.3.22に開催された原子力市民委員会のzoom講座で、清水奈名子さんの講演を視聴して発表しようと思いました。
先生は、戦争被害の研究から得た教訓 から、「被害の記録がないので、そのような被害はなかった」ことになる。被害者は被害を語りたがらない、語りにくい、 加害者は記録を破棄・隠蔽する傾向にあるとも、話をしていました。