​聞き書き、人生を文字にする活動

【「聞き書き、人生を文字にする活動」の再会】

  「お年寄りが亡くなると、地域の図書館が1つ消える」とも言われています。「聞き書きボランティア」とは、高齢者の話を聞きその人の語り口で書き、1冊の本にして差し上げる活動です。聞き手は語り手の経験、知識を共有して、知らなかったことを学べるとともに後世に伝える架け橋となります。出来上がった冊子は世界にたった1冊の本となります。

 

 私も定年退職後の活動として、2016年第1期生として「聞き書きボランティア養成講座」を受けて始めましたが、市民活動が忙しくなり、また、相手の話を録音してからのテープ起こしが大変でしばらく活動停止していませんでした。しかし、神奈川県の「聞き書きの樹」に所属し、研修も続けてきました。最近の私のface bookでは、その聞き書きの手法を多く使っています。

 

 「日本聞き書き学校」という組織もあり、今年202412月には横浜で開催されます。

 

 「一語一句をテープ起こしして書くと負担が大きく、長続きしない」とこの道の先生・小田富二さんに問うと、「ノートにメモをしながら聞き、テープ起こしをしないで書いてもいい。音声は確認のために取っておくという考えでも構いません」と答えていただいた。

 

 202462日に満蒙開拓団の生き証人の話を聴き、後世に伝える架け橋になりたいとも思い、face bookの発表だけでなく、ホームページにも掲載することにしました。

 

 また、これまでの作品もpdfファイルにいて公開しました。

 

〇参考 

・かながわコミュニティカレッジ講座 修了生インタビュー 「聞き書きボランティア養成講座」 講座実施団体:聞き書きの樹 (高橋喜宣が受けたインタビュー内容です)

c4d7b302d4d808002d231e46f1f8ca6c.pdf (soco-kana.jp)

 

 

 

今なぜ満蒙開拓団なのか? 当時5才の女の子の目から

https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2023122200593 より引用
https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2023122200593 より引用

     はじめに

逃避行の途中、「このおばさんについて、行きなさい!」と強い口調で母。

そのおばさんとおばさんの坊やと3人で一緒に近くの川まで行きました。

今もこの5才の時のことを鮮明に覚えています。その状況がフラッシュバックしてきます。

帰りはたった二人きりでした。帰ると、そのおばさんは母に抱きついて、わんわんと泣いていました。

 

これは202462日、満州開拓平和祈念館(20134月開館)、199月完成の別館セミナールームにて満蒙開拓「語り部」Hさん(84才)から伺った話です。その話を再構成したものです。話をした通りではありません。NPO法人原発ゼロ市民共同かわさき発電所の学習会の一環として企画しました。

尚、館内は著作権の関係で撮影禁止。そのため写真はありません。(ホール内のみ了解いただきました)

 

 

     満州・黒台信濃村開拓団の長女として生まれ、満人に逃避行への援助を受け

何で80才過ぎになって、新人の語り部になったかですって?

 

今、世界中のどこにでも戦争の気配を感じているから、やれることはやっておかないと思ったからです。子どもたちにこんな状況を思わせてはならない。こんな馬鹿げたことを体験させてはならないのです。

 

 私の父は25才、母は19才で結婚。私たちの黒台信濃村開拓団は、全国初の長野県単独の開拓団として旧満州のソ連国境近くに入植しました。母は花嫁として1938年に父より1年遅れて渡満しています。長野県全県から357戸、1610人が参加。隣接地の関東軍に野菜や穀物を供出していたそうです。

 父は開拓民として覚悟をもって入植したようです。でも、着いてみると、きれいに開墾されていたそうです。「何だか変だなあ、満人から取り上げたのかなあ」と公には言えなかったのですが、そう思っていたそうです。だから、部落の満人を大切にしていたそうです。

 私も近くの満人の家4-5軒によく遊びに行きました。194589日、ここにソ連軍がやってきたのです。

 引き揚げ命令がでたのは、天気の良い日でした。ただ広いとこに飛行機が低空で飛んできたのを覚えています。男たちは皆戦争に駆り出されていましたが、ラッキーのことにその日、父はたまたま村に帰っていました。1週間分の食料を用意して、マーチャ(馬車)に乗せて、逃げる準備をしていました。そこに親しい満人が来て、引揚を手伝ってくれました。牛や馬の他、鶏50羽を殺して塩ゆでにして『持っていけ』と渡してくれました。父にはそんな鶏を塩ゆでするような知恵はありませんでした。

 

194589日のソ連軍侵攻の翌朝、開拓地を出発して逃避行が始まる。約2ヶ月をかけて牡丹江に辿り着く。ここから汽車でハルビン、新京、秦天と収容所を転々とした。468月に葫蘆(コロ)島より日本に引き揚げ。終戦時に在団していた1335人のうち帰還できたのは277人だった)

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・読者の声
・昨日、佐久村の方の引き揚げの映画を観ました。語り継がれること大切ですね。引き揚げ者の方でも、知らない方もいるようで、良いのかどうか知りませんが、戦争をしてはいけないことを、強く認識していかなくてはと思いました。

→ コメントありがとうございます。記念館ではたっぷり2時間半かけました。お話は1時間の予定が1時間半語ってもらいました。館内で一緒に鑑賞した紹介DVDでは、戦争の性被害について何も語られていませんでした。語り部は「5才の子には強姦の中身は分からなかったけれど」その恐ろしさをなまなましく伝えていました。このface book3-4分で読めるようにしています。その3以降、その話がでてきます。

・性被害に関しての公開は配慮が大切ですね。

→確かにそうですね。「他人(ひと)様の過去を掘りかえすことは、むろん誉められた趣味ではない。まして、風潮したくもない過去であれば、それを煩わすことは罪悪であろう」と書いたのは神崎宣武さん。彼の「聞き書き遊郭成駒屋」p186からの引用です。

 

 

取り壊される、名古屋の遊郭を見て、その実像を求めました。名簿から松山まで遊郭で働いていた女性を探しに、経営する居酒屋までいったのですが、「いえ、何でもありません。いいんですよ」と一言も聞かなかったそうです。「初対面の私がぶしつけな問かけをして、これで少しばかりの答を得たからといって何の意味があるのだろうか」同p185

【今なぜ満蒙開拓団なのか? 当時5才の女の子の目から その2

     国境地帯に少しずつ異変が・・・

 

 開拓団はソ連との国境地帯にありましたから、警備兵がいつもいて、焚火をしていました。いつも点々とロウソクの火のように見えていました。この頃、そのロウソクのような火が見えなくなっていました。監視場があったので、朝夕、ラッパの音が遠くから聞こえていましたが、ある日からその音が聞こえなくなりました。これはおかしい。

 

 大人たちは「オレたちを守ってくれるといった兵隊さんが山に逃げて行った」と話をしていました。「今までさんざん屯田兵の役目をさせられていたのに」

 

 逃げる途中、最初の内はマーチャ(馬車)もありましたが、黒台駅まで行くと爆撃を受けました。馬が爆撃に驚いて、子ども二人だけを載せて自分の家に走って帰ってしまった。ということもありました。その子どもたちは行方不明となってしまいました。

 

 そこで、幅2m位の山道を選んで進みました。荷車も途中から使えなくなってしまいます。さらに、日本人に恨みを持っていたのでしょうね。盗賊が鉄砲を撃ってくるのです。それで、夜にしか、歩けなくなりました。

 

 カがいっぱいですし、私の靴がどこかに行ってしまい、とうとうはだしになっていました。

 

 「痛いよ」、「そんなことをいうと置いていくよ」と3才の妹を連れた母。

 

 そこで冒頭の話(その1)になるのでした。ある母親がもう動けなくなり、子どもを川に流す場面を見て、私は2度と泣きませんでした。このように親が子どもを殺すことが一杯ありました。子どもを置き去りにすることもありました。

 

 

【今なぜ満蒙開拓団なのか? 当時5才の女の子の目から その3】

     兵隊さんに子殺しを止められ

 

親にしがみついて歩いていきました。夜、声も出せません。

もうこれ以上歩けません。雨が降ってきました。すごい量です。

50人位の集団がいつか1/5位(?)になっていました。親たちは全員覚悟して、『子どもを殺そう』ということになったようです。その前に、子どもたちを集めて、ごちそうをふるまうことにしました。ごちそうと言っても、カンパンと中国のジュース。それも、カンパンは川の上流から流れてきたもので、ジュースも甘くないものでした。その後、手りゅう弾で子どもたちを全員殺そうとしていました。

その時です。兵隊さんが飛んできたことを良く覚えています。「何をやっているんだ! 早く歩いていけ!! いけ! いけ!」と叱られたのです。

その兵隊さんの激(げき)で、子ども達を殺さずに済んだ。父親は死ぬまでずっと言い続けていました。

 

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【読者の声】

・非常に感動しました。このような歴史を忘れてはいけませんね。貴重なお話を共有してくださり、ありがとうございます。🙏✨

・帰国にあたって本当にご苦労さまです。

 

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【今なぜ満蒙開拓団なのか? 当時5才の女の子の目から その4最終回】

     避難所にたどり着くが・・・ロスケの女漁り

 

夏に出発してから約2ヶ月間位たった頃、やっと牡丹江につき、奉天まで列車で移動して、日本人学校の避難収容所についたのは極寒の冬が近づいていた頃でした。暑かったのが、寒くなってきました。敷物もなく、硬いコンクリートの上に寝ていました。

 

収容所のご飯はコーリャン(イネ科の一種で、熱帯・亜熱帯地域で生育する穀物です。実は赤褐色で、米や小麦の育ちにくい土地でもそだてることができます)。でも、配給があってもお茶碗に一杯程度。「食べないと死んでしまいますよ」と言われたものです。「おかあちゃん、これぽっちでいいから、白いご飯ちょうだい」と言って数日後死んでいった子どももいました。途中3才の妹も肺炎でなくなりました。

 

私の家では815日には毎年コーリャンを焚いていました。子どもたちには「鳥のエサだ」と不評でしたが、「お母さんは収容所でこれしか食べられなかったのよ」とずっと言ってきました。

 

麻疹やチフスで死ぬ人も多く。死体にはまぶたにまでシラミがたかっているのを覚えています。中には、ロスケの餌食になって、自殺する女性もいました。殺された女性もいました。

 

ロスケが昼間にやってきて、女をあさるのです。ロスケが来たら、母親は私を麻袋にかぶせて隠してくれました。毎日、毎日、この残酷は繰り返されました。もちろん5才の子どもには強姦の中身は分かりませんでした。しかし、それでも、生き残った女性には・・・

     大人たちはいいなあ、暑い中、海に飛び込めるから・・・実は・・・

 

終戦後の翌年、8月頃暑い中、葫蘆(コロ)島からようやく船に乗って、日本に向かうことができました。乗船しても、難民ですから船の底に置かれ、11回位、看板に出してくれました。とても暑い日でした。シラミ退治にDDTが「死ぬかと思うほど」かけられました。「目をつぶっていろ」と真っ白になるほどかけられたこと、よく覚えています。

 

 船の上に出ると、女の人が海に飛び込んでいるのを見ました。子どもには「暑いからと飛び込んだ」と思い、「大人はいいなあ」としか思いませんでした。おかしな記憶です。

 

 その理由が分かったのは、20才過ぎです。ロスケに強姦された女の子たちが妊娠しているのに気づき、「これでは内地に帰れない」と思いつめ、海に飛び込んだ、と「ああそうなんだと」思いました。殺されなくて、何か月たってからコロ島について体の調子が悪くなって、妊娠に気が付いたようです。

 

 今も上の人たちのエゴで戦争が続けられています。母さん、父さんが今の私を生かせてくれた。だからこそ、私のような思いを子どもたちに2度とさせてはなりません。絶対に戦争は起こしてはなりません。

 

 あとがき

 

 Hさんはこのように大変な思いをして、終戦の翌年19468月に日本に引き揚げられたそうです。帰宅後も「学校に弁当を持っていけず、昼時間に、一人階段のところで過ごすこともあった」など、大変な思いをして、高校を卒業、看護学校を卒業して看護師の道を歩きだしました。そして、長年、看護婦長も勤められたそうです。

 訛りのないしっかりした口調で、淡々と語ってくれました。帰りのバスの中での振り返りで、「断片的にしか知らなかったことを、体験者の生の声が聴けて良かった。改めて平和教育の大切さを知った」と優等生的な発言がありました。これも何かすっきりしません。関東軍との比較で、今の自衛隊が本当に国民を守ってくれるかということについて、「自衛隊のすべてが悪いというような話はやめていただきたいわ。災害時には役立っているでしょう」という意見もでました。これまたどうでしょうか?

 私は、生の声を伝えたいと思い、忘れない内にと帰宅後2-3日の内に「聞き書き」風に原稿にしました。聞き書きは何日もかけて、何度も聴くのですが、たった1時間半、メモだけで録音もせず書くことは正確性に欠く箇所もあるでしょう。

 私は「その兵隊さんが集団子殺しを止めた」というくだりが気に入っています。国民を見捨てて逃げたにっくき関東軍ですが。

 ものごとをステレオタイプで見てはいけない、例ではないでしょうか?

 

 ただ、残念なことは、日本人や日本軍の加害者の視点も、満蒙開拓平和館に欲しかったと思います。

 

 

●注:差別用語

・満人(まんじん):当時、満州人を、こう呼ぶ日本人もいました。かなり差別的でよい言葉ではありません。

(森田拳次著『マンガ ぼくの満州 上巻』p17

・強姦(ごうかん):読者に不快を与える言葉、品位の送る言葉や隠語類は、その記事で特に必要とする以外は使わない。強姦→女性暴行、性的暴力、乱暴

(共同通信社『記者ハンドブック 新聞用字用語集』第11p521

 

●参考資料

〇引き揚げはこうして実現した ~旧満州・葫蘆(ころ) 島への道~

https://www.nhk.or.jp/special/detail/20081208.html

〇映画『葫蘆島大遣返~日本人難民105万人引揚げの記録~』の解説より

https://www.jicl.jp/articles/cinema_20220829.html

 (関東軍)はソ連軍が侵攻するや住民を捨ていち早く逃げてしまいました。また敗戦が決まると、「国」は外務省を通して、「外地居留民はできる限り現地に定着の方針をとるように」各地の領事館に訓電を発します。大本営は「在留邦人及び武装解除後の軍人はソ連の庇護下に土着せしめて生活を営む如きソ連側に依頼するを可とする。」「さらに土着するものは日本国籍を離るるも支障なきものとする」と棄民、民を捨てる政策を発表しています。

特集 | 開拓団守るため『性接待』…ソ連兵に差し出された15人の未婚女性「犠牲になれ」封印された75年前の取引 (tokai-tv.com)

〇世界に例をみない国策売春 (高橋作成)

函館にもいた夜の女たち、特殊慰安施設RAA、国策で誕生し国に捨てられたパンパン物語り (dti.ne.jp) 

 

(文責:高橋喜宣) 

 


語り鴨下キクさん海軍:海軍大佐家族との想い出 ~私の女中時代~

【生活史:海軍大佐家族との想い出~私の女中時代~】

 鴨下キクさん(故人)は70年以上前の写真を大切に保存していました。それは家族の写真ではありません。戦前の女中として勤めていた海軍大佐とその家族の写真です。

 

 「ねえや、ここに座って」と旦那さんが言うのよ。「ぼくはね、これから船に乗って戦争に行く。今まで家族をちゃんと見てくれてありがとう。長い間、ねえやにはずいぶん苦労させた。子供たちを助けてくれて、家族のためによくやってくれてありがとう」。

十一時になったらね、玄関のところに海軍の自動車が来たのよ。「横須賀に行かないで、他の所に行くからね。後はよろしく頼むよ」とちゃんと床に手をついてお辞儀して言ったのよ。

 

 PDFファイルは、キクさんの話を聞き書きの手法に沿って、まとめています。なぜ大切に写真を保管していたのでしょうか? その訳を知ろうと、キクさんが話たくない子ども時代の話まで聴いてしまい、不快な思いをさせたという後悔もあります。聞き書きの研修後、初の高橋喜宣の作品です。

 

2017510日 

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語り鴨下キクさん海軍:海軍大佐家族との想い出 ~私の女中時代~
聞き書き鴨下キクさん公開版.pdf
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